2002.3.29更新
 
 
香芝の歴史全編

4 平安京と藤原氏の全盛期

 延暦13(794)年、都が平安京に遷されたころから、大和の国は、政治や文化の中心から離れて、一地方の色彩が強くなる。律令政治の確立のために貢献した藤原氏の子孫は、朝廷の政府の要職を占め、次第にその権勢を伸ばしてきた。そして、九世紀の後半から皇室との姻戚関係が深くなり、十世紀末には摂政や関白の地位を独占し、十一世紀にはいると、ますます専横をきわめて全盛期をむかえる。道長が娘の威子の立后に際し、
     此の世をば 我が世とど思ふ望月の
               かけたることも無しと思へば
とその権勢を誇ったのもこの時期であった。  このように、藤原氏が栄耀栄華を極めることができたのは、全国に多くの荘園を所有していたからであった。奈良時代には特例としてしか認められていなかった土地の私有が、十世紀ころになると寺社や貴族の間では半ば公然となり、政治を私物化していた藤原氏は、位階の昇進や官職の任命に手ごころを加え、多くの私有地(荘園)を所有するようになった。  都が大和にあったころの香芝には、塚山穴古墳や片岡尼寺とみられる寺院がつくられ、皇族級要人との関わりが強く感じられる地域であった。ところが、平安京に遷都してからは、政治や文化の中心から遠ざかって、先人の遺産が忘却され、あるいは衰退の方向をたどって、葛下地方の旧跡となってしまう。代わって、貴族の繁栄に伴う日本的な仏教文化が伝わり、葛城の山系を行場とする修験道や極楽浄土の信仰に救いを求める浄土の教えが、この地方の人々の心をとらえ、その遺産とみられるものが現れる。  一方、平安時代初期の『延喜式』神名帳には、「大坂山口神社」や「志都美神社」などの記載があり、伝統的に葛下の里に根づいていた神社信仰がしのばれる。

(1) 律令制から荘園支配への移行

 古代律令社会での公地の班田収授は、養老7(723)年の三世一身の法、天平15(743)年の墾田永世私財法にみられるように公地の不足によって班田制がくずれ、平城京の華やかな繁栄の反面で律令制度に動揺がみえはじめていた。それが平安時代になって新しい墾田の私財化が進み、貴族や寺社の特権に保護された荘園の形成によって、著しくくずれていく。当時の香芝市の様子を物語る資料が少ないので、明確には、そのころの状況を知ることができない。  平安初期に編集された『倭名類聚鈔』(和名鈔)によると、大和国の葛城下郡には、つぎの7郷名がでている。
 品寺(ほんじ)(王寺?)・神戸(かむべ)(匹田、大畠?)・山直(やまあたえ)(逢坂附近?)・高額(たかぬか)(染野?)・賀美(かみ)(志都美上村?)、蓼田(たてた)(高田?)、當麻の各郷で、『大和志料』では、それぞれ( )内の土地をあてているが確定されたものではない。ただ、この7郷が旧北葛城郡に属していた地域にあったことは、今日、誰でも容易に理解することができる。 このうち香芝市に関係する郷名としては、片岡谷の賀美郷と二上山北麓の山直郷、それに五位堂のあたりまでが域内であったと考えられる高額・當麻の各郷がある。山直郷には、越後城司威奈大村の帰葬された山君里が含まれていたとみてよいのではないだろうか。  ところが最近、私は高額郷を五位堂・瓦口・別所の市内東部と大和高田市の大谷辺りの平地に当て、本市の良福寺・磯壁は當麻郷に含まれていたと考えるようになっている。  大化改新の功臣鎌足や律令制定の立役者不比等を祖先にもつ藤原氏は、平安遷都後も中央政府の役人として権勢を伸ばし、その権勢を利用して各地に多くの荘園をもつようになった。この多くの荘園からの収入が基になって、やがて藤原氏の摂関政治が開始される。このころ葛下郡の各郷の中では、摂関家の荘園としてその支配下に置かれたところが多く、隣接する広瀬郡にまたがる広範な荘園を形成していた。この広大な荘園は、後に平田荘と呼ばれ、摂関家の氏寺であった興福寺の一乗院に寄進され、平田庄司の管理下に置かれる。一方、片岡地方にも片岡荘が形成され、ともに興福寺の荘園として、中世の在地武士団(衆徒・国民)を形成する基盤になった。

(2) 式内の古社
 平安初期に編纂された『延喜式』と呼ばれる政令集に、中央政府の神祇官が幣帛を奉る官幣社と地方役人の国司が奉幣する国幣社3132座を、国別に記録した神社神名帳がある。この神名帳に記載されている式内社に対して、記載されていない神社を式外社と呼んで区分している。  香芝市に所在した式内社には、志都美神社、大坂山口神社の2社と、今日社名のみられない深溝神社の3社が市内にあったのではないかと考えられている。古代の律令制度がくずれ奉幣の儀式が励行されなくなると、中には式内社であった由緒ある社歴も、不明確になってしまった神社ができる。 今泉の志都美神社は、明和4(1767)年奉納の手水鉢に八幡宮の刻名があり、『大和志料』にも「俗に志都美八幡と称す」と記されている。また鎮座地の小字名が「清水」なので、志都美八幡と呼称されたとも伝え、社地に清水の湧き出ずる泉が現存することや石清水八幡になぞらえて呼び改めたとする考え方がある。ともあれ、江戸時代の『大和名所図絵』に、上里村(今泉もその一部)にあることがはっきりしており、「神祇志料」にみられるように、志都美八幡社は志都美神社と呼び改めるべきだとし、古代の延喜式内社とみるのが妥当と思われる。 大坂山口神社については、先の「大坂越えの道」でも少しふれたが、大和と河内を結ぶ大坂山の峠道との関係を無視しては考えられない。現在、穴虫と逢坂に山口神社を呼称する2社があり、江戸時代の『大和名所図絵』や『大和志』などは大坂山の入口に近い穴虫説をとっている。しかし、逢坂の山口神社に伝えられる中世文書には、「ヤマノクチ」の記録があり中世に大坂山口神社を呼称していた可能性が高い。いずれにしても、大坂山を河内から大和へ越えてくる相当広い範囲の山地であったと考えると、両社それぞれに式内大社の故地とみてもよい理由がある。  『香芝町史』の「式内社考」で志賀剛氏は、葛下郡内で所在不明となっている深溝神社を、下田の鹿島神社と推定している。そして、その根拠として、「杜の宮」と呼ばれる鹿島神社の社地が条里制の1坪の広さを占め、背景に下田の集落がある。周辺の式内社へは約半里の位置にあって式内社の分布原則に合致し、さらに、下田のあたりは深溝の名にふさわしい築堤のなかった川である。などの理由をあげている。 この鹿島社のことについては、後稿でもさらに述べることにしたい。

(3) 葛城の修験道
 逢坂の山口神社の前にある三岡邸の前庭に、凝灰岩製の層塔がまつられている。この層塔は大坂山口神社に奉仕していた大坂直の墓であるとする伝説もあるが、一方、葛城の修験道に関係するものとして、今日でも信者の人たちのなかに、遠くから参詣する人がいると聞いた。  修験道は、飛鳥時代後期に御所市の茅原で生れた役小角(行者)が創始したといわれ、平安時代になって天台・真言両宗の密教と結びつき、吉野の大峯山寺(金峯山)を中心に、捨身の苦行をとおして霊験を得ようとする山伏の修行で知られてきた。この金峯山寺へは、宇多天皇をはじめ藤原道長・頼通・師道など摂関家の人々、さらに、白河上皇など都の皇族や貴族が相次いで入山している。その時、釈迦入滅2千年後にあたる「末法の世」を意識し埋納された経塚からは、道長の経筒をはじめ幾多の国宝や重文の遺物が出土した。  『本朝高僧伝』のなかの役小角伝には、小角32歳のとき家を棄てて葛木山に入り、岩窟に住み藤葛を衣にし、松果を食して、難行苦行の末金峯山に道場を開いたことが記されている。以来、女人禁制の霊場として今日に及んでいる金峯山寺に対して、葛城の山系の金剛山の山頂には金剛山寺(転法輪寺)があり、役行者が開基した山伏の修法の場と伝えられている。  江戸時代の『葛嶺雑記』では、葛城の修験道場の巡礼について、紀州の 友ヶ島から根来寺・粉河寺・和泉の牛滝山、河内の岩湧寺をへて大和に入り、大沢寺・石寺から金剛山へ上り、帰りは朝原寺・一言主寺・當麻寺寺を巡拝して大和川筋の亀尾に出ている。京都を出発して葛城の霊場を巡拝する修験者にとって、逢坂の山口神社のあたりは、當麻から亀尾に至る信仰の道筋ではなかったかと考えられる。そして三岡邸の層塔には、こんな葛城の修験者の信仰が、今も息づいているような気がする。

(4) 源信僧都の誕生地
 平安時代中期の高僧源信(恵心)僧都について、その生国とされるこの地方では「恵心さん」と親しみ深く呼ばれ、阿日寺(良福寺)・福応寺(狐井)高雄寺(新在家)などの寺伝とかかわっている。 

阿日寺の恵心僧都像

恵信心僧都は、政治の腐敗と武士の抬頭によって社会不安が強まっていくなかで、『往生要集』を著し、人々に極楽往生の教えを説き浄土教をひろめた。当時、盗賊の横行や疫病の発生に苦しみ、末法の世の到来したものと失望する民心を、「永遠の生命と無限の世界に通ずる阿弥陀仏を信仰することによって救われる」と説き、鎌倉時代の庶民仏教の成立をうながした。その意味で恵心僧都の思想は、現代のわれわれにも大きな影響を残している。  説話集『今昔物語集』の記述やそのもとになったとみられる『法華験記』によると、恵心僧都の生国は大和国葛下郡であるとし、大江匡房の『続本朝往生伝』のなかでは、當麻郷の人であったと詳しく生地を指示している。また、これらの僧都に関する伝記には、生母が男子の懐妊を祈願し、後に僧都自身が幼少時に斎戒修行した縁故の深い寺院に、同じ葛下郡内の高雄寺があったと記す。この高雄寺について、『大和志』では新在家村に所在すると注記している。さらに、狐井の福応寺の由緒には、恵心僧都創建の伝えがあり、「版仏如来」という板仏を本尊としていたことが『大和志』に記され、良福寺の阿日寺も僧都誕生の故地であると伝えられている。  このように良福寺や狐井には、名僧恵心僧都との縁故を伝承する寺院がみられ、當麻郷に近く、その一邑であった可能性を考えると、僧都の生誕地がこのあたりだったことが理解できるだろう。  ともあれ、私たちの住む二上山麓のこの地から、日本の仏教思想史上稀にみる名僧を世に送りだしている。この事実に誇りをもち、大先輩の恵心僧都に続く人材を育てるため、市民のみなさまと共に青少年の教育を大切にしていきたいものである。

(5) 平安期の仏教遺産
 奈良時代に教学の殿堂として僧侶の研修の場であった寺院は、平安期になると、天台宗や真言宗が開かれて、日本古来の神々と結びついた神宮寺が建立され、加持祈祷を重視する神仏習合の風がおこって、祈りの場となる。さらに浄土宗が発達するに及んで、極楽浄土の華麗な世界へ往生できることを信じ、阿弥陀堂建立の風潮があらわれる。この間、香芝市内にも、密教や浄土教の仏教文化が伝えられていたはずであるのに、現在その遺産は極めて少ない。しかし、皆無ではなく、その面影だけは伝えているようなので、そのいくつかをとりあげてみることにしたい。  逢坂の西念寺は現在浄土真宗本願寺派の寺院であるが、境内の薬師堂に像高56cmの木像が祀られている。堂名に示されているように薬師如来像といわれているが、いたみがはなはだしく何像かは不明としかいいようがない。ただ一本造の木造は、平安初期の古式を示す造像で、密教関係の仏像ではないかと思われる。 

宝樹寺阿弥陀如来坐像

そのうえ、石製の神像も一緒に祀られており、共に大坂山口神社の境内にあったと伝えられていることから、山口神社の神宮寺のものであったと考えられる。だとすれば、平安時代の初期に香芝市にも、密教文化が流布していたことが考えられる。  五位堂の宝樹寺には、藤原期のものとみられている阿弥陀如来の坐像が、本尊として安置されている。そして、この阿弥陀如来坐像は、別所にあった阿弥陀堂から移されてきたとの伝承がある。現在、別所に安養院の地名があって、安養院の阿弥陀堂であった可能性が高い。とすれば、浄土教の発達に伴って、この地方の有力者か、荘園の領主が阿弥陀堂を建立して、阿弥陀如来像を造立したとみることができよう。  さらに、下田の鹿島神社の結鎮座文書にでてくる法楽寺には、鹿島社の結鎮座以前から仏教的行事として法楽寺で結鎮祭が行なわれていたとの伝えがある。また、阿日寺の客仏として祭られている大日如来坐像は、近くの廃寺真言宗常磐寺の元本尊で、国の重要文化財に指定されている。平成6年、香芝市の文化財に指定された平野正楽寺境内の「石造阿弥陀如来像」も、平安時代後期の像立で、古墳の石棺材を転用した可能性も考えられる。このように、市内では平安時代の仏像や平安期創建とみられる寺院がいくつか考えられる。

(6) 興福寺の平田荘と片岡荘
 延久元(1069)年、摂関家と外戚関係のなくなった後三条天皇は、藤原氏の新立荘園の整理をめざして荘園整理令をだした。  翌、延久2年の『興福寺雑役免帳』には、現在の香芝市内と思われる地域に、平田荘と片岡荘の荘園名がでてくる。南都興福寺は、藤原鎌足の建立した山階寺を、その子、不比等の代に藤原氏の氏寺として奈良に移し、以来、氏神の春日社と共に栄えてきた。とくに藤原氏が摂政関白の地位を独占して専横を極めたころには、隣接する他の多くの荘園をとりこみ、その寺領を拡大していった。  興福寺領平田荘は、康和3(1101)年に法隆寺末の定林寺、妙安寺から、右大臣藤原忠実に提出された解文(訴状)によると、両寺の官省符田(公認の荘園)の農民が、平田荘の庄司の威をかりて所当米を滞納し、代わりにわずかの軽物(絹)しか納めないので、これを止めさせてほしい訴え、さらに、本来興福寺の平田荘は御油と御服の免田が百町歩であったが、いまでは1200余町歩もの出作田をとりこんでいると告発している。  事実、久安4(1148)年の『大和平田庄田数注進状』では、2295町1反12歩に増加しており、平田荘の拡大のはげしさがうかがえる。そして、この注進状に記されている西金堂坪々の十八条三里・十九条一里・弐拾条四里・弐拾一条四里・僧慧融領の十九条一里・十九条二里・僧斉順領の二十二条三里が、香芝市内の条里に該当すると思われる。  また、片岡荘については、『興福寺雑役免帳』に真野条の五里・六里・七里と墓門条の四里に、田畠十七町一反三百四十歩が所在すると記されている。しかし、真野条・墓門条は片岡谷の志都美地区にあてる説と、馬見丘陵内にあてる説があって確定しがたい。ただ、両条里とも自然地形に制約された特殊条里区であったことが想定できる。  これらの荘園の経営は、本所である藤原氏と領家、興福寺のもとに、現地の荘司や寄人がいて、年貢収納などの管理に当たったと想定される。やがて、その荘司、寄人が、衆徒・国民と呼ばれる在地の武士団を形成する時代がやってくる。